2018年6月14日木曜日

宗教の先の死生観


「人は「死後の世界」をどう考えてきたか」:中村圭志氏を読んでいる。冒頭で氏が述べるように、死後の来世は結局は不可知であるのだが、だからと言って、放置する訳にもいかないだろうという立ち位置だ。そして、そこには宗教と時代の変遷を通じた人類の思想の歴史が重なり、そこに焦点を当てて、現代の在り方について言及するスタイルがこの本の特徴だ。聊か、宗教には余り熱意の無い私は、最終的な現代の在り様に特化して、本を読み砕いた次第。その現代の在り様で、一番先鋭的なものが、臨死体験ではなかろうか。やや悲観的な民族である日本人は、これを真夏の世の夢程度にしか捉えないが、欧米人はこれを死後の世界の存在の証と見做す様である。又、何人称の死の違いにも氏は言及する。個人的な死の展望ないし覚悟を意味する「一人称の死」、親しい者の死を看取る過程を意味する「二人称の死」の概念、更には人間一般の死として語られる伝統宗教の三人称的な来世観の三つがあると言う。これに依れば、私が以前このブログで取り上げた「最後まで、あるがまま行く」:日野原重明氏の考察、「意外に頑固な105年の人生」で述べている日野原氏の死への覚悟の推定(「怖い」と述懐したその気持ちの思惑)は、多分一人称のもの。私自身が死をどう思っているのかの考察なのかも。そして、身内の死に対する考察は二人称であり、それを読んだ読者の方々は三人称でそれを受け止めるのかと。こう分類すると、死の捉え方は多様であり、一義的ではないことが分かり、気持ちがゆったりと整理出来る気がする。以前、高村薫氏が奈良時代の高僧である空海を取り上げ、やはり現代の高僧と3・11のようなクライシスに対しては、宗教しか救いは在り得ないと言及していることを思い出している。きっとそれは我々が信じてきた科学の力への幻想の崩壊のある意味での敗北宣言だったかに思えるのだが、宗教すらも其処で停止する思想であるという他の識者の指摘にも頷けるものがある。要は死という絶望的に思える人生の悪夢が、実は生きる希望さえも閉ざす、あるいは死んだ方が楽と思わせる来世観こそが、根っこにあるのかもしれない。福岡氏等賢者が進める生命科学の果てが、不老不死という絶望からの離脱を目的として科学への信仰とすれば、それも又、生命体としての人間の当然あるべき闘争にも思えるのだが、皆さんは如何お感じだろうか?

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