2018年5月1日火曜日

空間という仇花


空間、あるいは間は人間の行動に影響を与える。他人との距離感が不足すると窮屈だし、広すぎると寂しくなる。その適度な距離感が重要だ。人間関係もそれに近い。血の繋がりで濃く結ばれる家族や親族。その一方、友人や職場といったやや薄い関係にある人々。ここにも距離感に応じた行動が生じる。ビジネスに目をやると、電線や配管で強制的に繋がる既存エネルギー産業と庭にある太陽光から得られる分散型発電は自ずと異なる。既存エネルギーが大規模発電所で安価さを誇ったように、今や分散型発電は自由を主張し始めている。もっと至近な例はネットワークだ。無線通信技術で、世界はある意味一様に拡大した。そして、その広大さを利用して、情報というデータを集約し、ビジネスに利用し始めたのだ。これは既存エネルギー産業は行っている独占的事業運営に似ているが、インフラ事業としての心得が果たして、FBやGOOGLEあるいはアマゾンにあるかと言えば、かなりネガテイブな反応が返ってくるはずだ。本来薄い関係のはずが、実はもっと濃い関係になってしまったネットワーク。システムは今や、世界から槍玉に挙がり、批判の中心となっている。其処にはインフラとしての社会貢献の形が見えないからではないかと思う。逆に言えば、通信技術の距離感に対するコストと付加価値の逆進性こそ問題なのだ。もし、広く伝えるべき情報であれば、一方的に通信するのではなく、それなりの公的且つ信頼性の高い機関を経由する工夫も必要だし、時間を掛ける事も重要だ。早く且つ破壊的であるネットワークの力をどう公平感をもたせ、どう社会の為に使うのが良いのか。それを個々の企業任せにしていたのでは、やはり問題だ。大手ネット企業の創業者は皆異端児だ。政治家や政府の官僚の同様だ。普く知徴収した国民の税金を自分たち(あるいは支援団体に)に有利な様に運用するのも、同じ仕組みだ。濃い、薄い、その距離感の有意差をどう付加し、どう担保するかどうかは、結局はその人の公共性への意識なのかもしれないのだが。

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