2017年7月15日土曜日

AIが先か、人間が先かの価値判断


先日、快進撃を続けていた将棋の若手棋士が30連勝を逃し、話題になっていた。愚息が同級生(年齢という意味で)という事で、あんな天才を息子に持ったら、大変だなあと密やかに思っていたりする。どちらにせよ、トンデモナイ少年が登場したものだが、それにはAIなる将棋ソフトの台頭が伏線として存在しており、それを良く学んだ若手棋士の活躍でもあるのだ。一方、対局中にソフト検索したのでは?と疑われ、犯人扱いされた中堅の棋士が居たが、随分と将棋界はこの数か月で変化したものだと実感している。それはきっと、AIをひたすら脅威と考えるのではなく、どう共生すべきかと懐深く構えるようになったのかもしれない。冒頭のAIが先か、人間が先かの議論は囲碁と同様に、定められたルールの中での勝負事では、AIが勝るのは当然であり、ルールの中にプレイヤーは人間に限るという位の制限を設けるのが妥当なのかもしれない。それはオカシイと異論を抱く人が居たら、既にAIほど有能ではないにしろ、各家庭で御飯を自動で炊いたり、あるいは床の掃除を勝手に行ってくれる家電が存在する訳で、結局は使う側の人間の都合で、その妥当性や必要性は判断したら良いのではなかろうか。現にかの若手棋士は打ち始めの悪手をAIで定量解析で改良したり、定石でない手を勉強したりと、積極的だ。それは自分が強くなるためのトレーニングの一部と割り切れば済むはずなのだ。ビッグデータ解析の原理も同じだ。膨大なデータの前で委縮してしまう人間を脇に押しやり、果敢に無茶苦茶な原理や法則を産み出すAIの方が余程、過去の成功体験に依存しないチャレンジャーでもあるのだ。囲碁や将棋には対局相手が存在し、その勝敗が明確な点に人々は惹かれるのだと思う。奇しくも、経済系週刊誌の囲碁の井上棋士と将棋の藤井棋士が対談の中で、愚痴っていた様に、電力が供給される限り、疲労を感じないAIは既に、対局者としては相応しくない事にもなるのかもしれない。故に所詮は機械との対決など、無意味とも言えるのだろう。但し、それを利用し、短期間でプロ棋士として成長出来るのならば、それも一つの優れた学習方法だとも言える。どちらが先か?当然人間である。そうあって欲しいと思うのは私だけではないはずだ。



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