2017年5月10日水曜日

部活の常識を破る時


部活、この言葉にそれほど悩まされるとは思わなかったが、愚息がその立場に追い込まれると、他人事ではなくなるから不思議だ。丁度、都合よく、「そろそろ、部活のこれからを話しませんか 未来のための部活講義」:中澤篤史氏の本が出たので、早速部活とは何ぞやを謙虚に学ぶ事にした。結論から言えば、今の日本の様に義務教育の一環として、取り組んでいる国は極めて稀であり、第一に、教育法自体にもそれを推進すべしとも書かれていないらしい。要は位置づけが本来の地域を主体とするスポーツ振興へと引き継ぐ段階まで至っていない現状が其処に隠されている様だ。思い当たる節は多々ある。ここが僻地なのかどうかは別にして、町内会等で行っていたスポーツクラブみたいなものが存在しない。逆に言えば、より専門的なサッカーやバスケ、野球といった私的クラブはあるが、会費も高いし、練習も年中あって厳しい。そして、彼らがそのまま中学生として編入されれば、当然彼らのレギュラーの座は約束されたも同然になるという仕掛けだ。何となく、納得がいかない。教育の一環であるとするならば、もっと公平にチャンスを与えるべきだろうし、勝敗に拘るのも可笑しい気がするからだ。(勝敗に拘るから、小学校からのクラブ選手を優遇することになる)尤も、顧問を任される先生も大変だ。教員プログラムにはこのコースは存在しないから、まさに現地で手探りでスポーツ指導をしてゆかなくてはならない。しかも年中である。教員が実は結構ブラック企業と言うのは、公務員故に中々オープン化されない事実だが、この部活も問題の一つだろうと思う。元々スポーツの発祥の地はイギリスで、エンターテイメントの一部として採用された歴史と、スポーツをトレーニングと誤訳?した日本とでは、やはりスポーツに対する取り組みの哲学が全く異なってしまっているのだろうと思う。又、昨今のスポーツのビジネス進化により、普通の勉学以上に部活によるスポーツ育成がビジネスに直結する可能性も広がり、これが又、より部活に力を入れざるを得ないと言うジレンマを呼んでいるのだ。私見は此処までにして、氏の挙げるテーマは幅広い。9章に分かれ、1章:なぜ部活は成立しているのか?2章:いつ始まったのか?3章:何故拡大したのか?4章:いまの部活は?5章:部活の政策は?6章:生徒の命を守れるか?7章:教師の生活を守れるか?8章:生徒の部活への向き合い、9章:部活の未来となる。そして、こうした章を重ねながら、外部委託問題としての多大な経費負担、部活が年間10人以上の命を奪っている事実、成果を求める体罰・暴力、顧問教師の過酷な勤務状況(週当たり、8時間!)。氏が指摘するのは、自主性という理念を借りた、実は厄介な教育カリキュラムである部活を本来の楽しむ練習と化して、決める、交わる、ふり返るといった三つの要素で捉え直したらどうかと。言うは易し、やるは難しではあるが、愚息には少しにはアドバイス出来そうだ。その意味では、子供を持つ読者にはうってつけの本かもしれない。



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